兵庫区のへそで苦悩を叫ぶ
人を裏切り、人に裏切られるのが嫌だから1人で居たいと言う気持ちと、誰かと波長を合わせたくて仕方ない気持ちが交差していて、自分自身を把握できない。
また自分探しをしなくてはいけない。
ここ数年、誰と会っても楽しいんだけど、なんだか虚しさを感じてしまう。世界が広がり過ぎてしまっているのだろうか。とりあえずネットの存在に吐き気を催しておく。
結局俺が居場所だと感じられたのは、小学生の頃と、家族と、親戚の中だけだったのかも知れない。中学生の頃もかろうじて入るかな。
そう思うのはあの頃が「楽しい」と思えたらそれで良かったからかも知れない。遊びが全てで、毎日を楽しむことが全てだった。過去に囚われてしまっている。
あの頃に戻りたい。でも、うーん、楽しむだけだっただろうか。あの頃もそれなりに将来のことや他の問題を考えていた気もする。
今では同級生の集まりも既に世界が違っていて、俺もどうすればいいかわからない。戻すのは容易ではないし、戻すことは総意ではない気もする。
そういえば、小学校の同級生と卓球を3ヶ月前ぐらいに2回やったけど、あれは良かった。(てかもうそんなに経ったか。一週間前ぐらいに思える。)彼女は小学校と変わらない気分で生きてる。それが伝わってきてた。毎日をそうやって過ごしたいとこだけど、俺には余裕がないんだよなあ。それも思い込みかあ?
現時点の俺が楽しみ以外に何を求めているのかわからない。
もしかして、俺の事を気にしてくれてる人を、俺が気にしていないのが原因なのかも知れない。そして俺が気にしている人は、俺のことを気にしていない。
なんだこれ。残念だわ。カナシイ・・・。
でも人と会えば、人は俺の事を気にせざる得ないし、俺も俺でその人を気にせざる得ない。両思いだ。
やっぱり1人で居すぎるのが悪いのかなあ。寂しいし、居場所をどんどん失っていくんだろう。不特定多数のための居場所はどんどん作られていくが、俺個人に対する居場所はなかなかないんだよね。「お前じゃなきゃだめだ!」(笑)
はあ、とりあえず、これから一日を大事に生きたいと思うね。なんだか知らぬ間に日々が過ぎて去ってしまうから。毎日パソコンとにらめっこしてたら数ヶ月経ってしまってたし。でもどうやったら日々を噛み締めて生きることができるだろう。これが感謝の心を持って生きるということか?それとも幸せならば日々を噛みしめる必要もないか。ただ今は本当に1日をとても軽く見ている。
答えはきっと、人ともっと自分から積極的に会っていくことなんだと思う。残念ながら、俺自身に大した魅力がないから、不特定多数の一人としてしか誘われないしね。その原因に俺自身が皆の魅力をみていないし、気にしていないせいもあるんだろう。答えはきっとこれだ。予定が合わないことに疑心暗鬼しても仕方がない。自分から積極的に。
でもこの答えがまだしっくりきてない。どうにかしてここに来ないといけないんだ。
気にされたいし、気にしなきゃならない。
無難と一癖の選択
俺はいつも選択を迫られたとき、一癖も二癖もあるようなものだったり、全く知らない分野だったりを選択してしまう性格だと思う。言うまでもない。
例えばキーホルダー。
キーホルダーを選ぶときに、無難な可愛い系じゃなくてちょっとキモイのとかを買ってしまう。もしくは狂気なものだったりして、それに対して深い感銘(^db^)とか共感を勝手に感じてしまう。
さも自分を表現したかのような気になる。
その1つ1つの選択に「個」を投影しようとするのだ。
だから、無難や類型化を嫌ってしまう俺は、ときに自棄な選択をしてしまうのだろう。
それによって俺は何度も失敗しながらもアイデンティティを獲得してきたんじゃないかとは思っている。
(今までアイデンティティという語句を何度も聞いたし、自分でも使ってきたんだけど、未だによく意味を把握できない。自由に使いこなせない。多分アイデンティティに関する書物を読んでないからだと思う。)
いわゆる無難だとか最大公約数的な選択を行い続けて、果たして個を保つことができるのだろうか。俺は他の人と一緒なのは御免だ。
また、重要な選択をするときは、「決断」しなければならないだろう。
決断とは、哲学の先生と人生の話をしようのp12の言葉を借りると
意図せずに行われていた逡巡と熟考の末に、「ああ、これがなすべきことだった」という仕方で、既に決心ができている自分に気付くのです。フィンガレットは、決断とは受動的なものだとも言っています。
というように決断は「おりゃっ!」という形でやるもんじゃないらしい。
重要な判断をするときは、悩んで悩んで、自分の中に決断が出来上がるのを待つべきだろう。
くれぐれも自分に嘘はつかないほうがいい。
よく言う「やらないよりやって後悔したほうがいい」と同じ論理だ。
後悔しすぎてやらないほうが良かったとなってしまっても知らないけど、少なくとも20代には、挑戦して失敗する時間ぐらいあるとは思う。
ヲタク系ヒゲ男子
やあ、今日もヲタク系ヒゲ男子、udomoriです。
なんだか髭について色々言われるのでブログに書いてみようかなと思いました。
まず、僕は髭が生えます。1日かからず青くなります。湯水のように湧いてきます。この髭の生命力に日々感動しながら生きています。少しは見習いたいです。
髭を剃ったほうが良いと言われます。特に女性から言われます。
「汚い」「怖い」「失礼」とか無茶苦茶言われます。失礼とかよくわかりません。
僕もやたら言われるので、髭をうまく魅せている方々を参考にしつつ、ちょっと整えているつもりです。
しかし髭を整えるのは遠出する前日ぐらいです。3日に1回通う関西スーパーでは無精髭なので、どこぞの汚いオッサンと思われていると思います。スーパーのおばさん店員の噂ゴコロを刺激している可能性すらあります。
でもこの髭、毎日剃るのはヒリヒリするし、肌を傷つける気がします。アフターシェービングやらもちゃんとつけてます。
もういいや、言いたいのは、髭のほうから勝手に生えてくるからどうしようもないし、処理できないほど髭が生えてくるのが俺なので、俺自身を矛盾なく認めるなら生やすしかないし、別にわざわざ「伸ばしている」訳でもないってことです。
皆さん「伸ばしている」と表現しますが、別に髭が生える人は伸ばしている訳じゃなくて、生えてくるからしょうがなく「育てている」だけです。
僕だって髭とか面倒臭いです。めっちゃ生えます。だから、いくらか髭を残しておかないと1日経たずに青くなって目立つのでとても気になるんです。これが原因です。
だからと言って脱毛する覚悟も金もないし、でも髭脱毛したら全身脱毛しないと、顔と体のDNAの矛盾が気になります。
これからは髭生えている人を見て「伸ばしている」とか、さも意図的に「伸びろ伸びろ」してる人のようにつっかからずに、「あ、この人は育て屋さんだ、ブリーダーなんだ」という認識をしていただきたい。
この「毛」を毛嫌いする現代の風潮のなか、髭男子達は日々、部屋に篭って自己嫌悪に陥ってることでしょう。
髭嫌いでしたけど、そんなしょうもないことで自分を嫌いになるのは不本意なので、もう今では立派なブリーダーです。
是非皆さんもジレットヒュージョン5+1枚刃のように「やさしやさしやっさしー」く見守って頂けるとありがたい。
今回は世の中のクソ髭生え野郎どもの代弁が伝えられて良かったと思います。
いや、この記事どうでもいいな。でももう書いちゃったから投稿します。
髭男子伸びろっ!
あとモテろっ!
論理からの脱却、そしてオンリーワンへ・・・
大学受験を経験して、俺は自分の処理能力の低さに絶望した。
英語は文法だけ勉強した。単語を覚えることは不可能だったし、長文なんて読めたもんじゃなかった。全く面白味の欠片も感じなかった。全員エスペラント語でも習ってろと思った。
化学は面白くなかった。物質の生成に神秘は感じなかったし、高校化学はなんか表層的過ぎて理論なんてあったもんじゃないと思った。有機や無機の反応はほとんど忘れた。
受験では結局、得意な科目である数学と物理しかまともに勉強できなかった。結構勉強したのに偏差値は数学65~69、物理は70前後だった。勉強する前はもっと圧倒できると思っていたけど、俺は思ったよりウンコだった。
ああ、俺はやっぱりそこらへんの学生と変わらないと思った。
未練タラタラだったけど、自分の処理能力・問題を解く力はクソなので、もうその土俵で勝負すべきじゃないことを思ったし、その後も何度も思わされた。
そしてようやく最近になって、ある問題に対する処理速度を競うのではなく、自分の感性を活かした方向で勝負したいと思えてきた。やはり正解が無限に存在する分野のほうが人として解放されやすい。オンリーワンとナンバーワンの論争もあったけど、各々が好きに目指す方向を決めればいいだけだと思う。
オンリーワンとナンバーワンの話はどこにでも現れる。例えば、ビジネスでは価格競争のようなナンバーワンを決めるやり方はお互いを潰し合う。それに対してオンリーワンの価値を提供するという方向で解決しようなんてこともある。その価値が真似され易いものならすぐにナンバーワンへの抗争を強いられる訳だが、実際はやはりオンリーワンは強い。その理由は一番初めの生産者は同じ思想のもとにそのシンパに価値を提供し続けることができるからだ。面倒なので多くは挙げないが、歌手で言えば、中島みゆき、ユーミン、SMAP、漫画家の絵なら鬼頭莫宏、福本伸行、岩明均。彼らは歌が一番うまい訳でも絵が一番うまい訳でもない、むしろ下手かも知れない。しかし、いわゆる味があるって奴だ。彼らは上手か下手という尺度で勝負していない。
科学や英語を勉強してもナンバーワンにはなれないし、なれるとすれば地域やコミュニティのナンバーワンとかそういうところだ。そのナンバーワン達は全国(インターネット)に出てしまうと一気にその地位が崩壊する。
まあでもミクロなナンバーワンすら、範囲を絞りに絞らないと、なるのは難しいので、ほとんどがパンピーだ。
プログラムは理論があるし、正解がある分野だと思う。理論や正解があるというのは、考える要素が少ないということだと思う。多変数関数のなかでも、変数が少ない部類に入るということだ。
それに比べて歌手、漫画家、脚本家、俳優、その他色々、そいつらはオンリーワンだと思う。例えば、絵の良さを語るには要素が多すぎるし、全てが正解だ。下手なのが逆に良いなんて解釈もある。
オンリーワンになるためには、まず生産者になる必要がある。その生産の要にならなければならない。そして、その生産を良く魅せるために、プロデュース(和製英語)しなければならない。科学や英語はそのためのツールである。
俺はもうナンバーワンの抗争で、個を埋没させるのは嫌になった。
だからこれからは理論や正解を求める行為から脱却し、オンリーワンを模索する旅に出る。
その一環として、ドット絵でも描こうと思うwそれだけw
にんじん
自分探し
ほとんどの人間は意識が芽生え始めたあとに変わることはない。
そして「自分探し」とは基本的に「デキル」自分に気付くことではなく、「デキナイ」自分に気付くことだと思う。
幼少時から高校ぐらいまで自分がどんな人間だったか思い出してみろ。
「デキル」ことは既に高校までにはデキテタはずで、これから発展途上国に旅に出ようが新しい「デキル」に気付くことはない。
「デキナイ」が「デキル」に変わることはないし、もし変わったとしたら今まで「デキテタ」ものが「デキナク」なっているだろう。才能とは長所であり短所だということだ。
自分のことがなんにもわからない奴はストレングス・ファインダーでもやってみろ。(才能(じぶん)の発見 - StrengthsFinder(ストレングス・ファインダー) - アダムス的パグズライフ)
自分がどういう指向性を持った奴か少しはわかるだろう。(知り合いで上位5つの才能がわかった人は俺に報告しろ)
自分がどこまで他人の意見に毒された人生を歩んでいるのか気付き直せ。小さい頃の自分はどんなだったのか。
基本的なことを言うが、「やりたい」ことなんていうのは幻想だ。
それは「やってみたい」「実験してみたい」というだけで、別に「やり続けたい」訳じゃない。やってみてすぐそれに気付く。
「デキル=やめられないこと」、「デキナイ=その他全て」であり、ここを勘違いするな。
だから今まで生きてきて「やめられなかった」ことを伸ばす方向でしか、うまく生きる方法はない。やめられないことにコンプレックスではなく誇りをもって生きろ。
できないことをできるようになる幻想を捨てて、やめられないことを生業としていくしかない。
それが一般常識から外れる行動だったとしても、結果的には人生を主体的に生きていくたったひとつの冴えたやりかただ。
しかし敷かれたレールを歩むことしかできない人間もいる。そいつが勘違いしてしまうと悲惨なことにになる。
見極めは非常に難しいと思う。
俺ももう祈るしか無い。
ありがとうごじゃいます
友達と話すのはやっぱり楽しいです。
特にわかってる人と話すのは楽しいです。
世の中、わかってない人だらけです。わかってない人と話すのはつまらんのです。
でも皆こんな俺をかまってくれて、本当にありがとうごじゃいます。
DOZ - ありがとうございます (아리가또 고자이마스) M/V - YouTube
こんなクソ歌あったよなw
特にツボなのが、40秒付近で女性が走り去ってくところを一瞬チラ見してるとこやなwwwあと50秒付近もおもろすぎるわwてか全般的におもろすぎて全部おもろい。
改めて今観たら韓国の歌でカンナムスタイルと1,2争うんじゃないかって思う。
ほんま
関西弁で「ほんま」という言葉がある。
「本当」って意味だ。
たまに「ほんま」をそのまま変換して「本間」と書いてる人がいる。
だが、漢字を見てわかる通り、「本間」には「本当」という意味なんてない。
自動漢字変換の弊害だ。
「本間」が使われた文をみる度に、気になってしょうがない。
Twitterで「本間」を使ってる連中を検索した。
だが、「ほんま」に漢字が無い訳ではないらしい。これは数年前、本間を調べたときに同時に知った。
「本真」だ。
正直言って使ってるのは俺ぐらいな気がするし、俺もたまにしか使わない。「マジ」のほうが好みだし。
と思ってTwitterで検索したらいないことはなかったw
「本真」とか見慣れなさすぎて、こっちも本当にそんな漢字あるのか?って感じだ。漢字の起源まで追うつもりない。どうせつまらんし。
言いたいのは、「本間」使うのをやめてマジ「本真」使え。